教え・考え方
生きとし生けるものの中で、与えられた“いのち”を、そのまま素直に生きることができない、やっかいな生きものが“人間”です。
他人と比べては、うぬぼれてみたり悲観してみたり、その心はとどまるところを知りません。
ああであったらこうであったらと揺れ続けるあなたの“心”が、あなたには見えるでしょうか。
違いを違いと認め難い、自分で自分を受け容れ難い、現実から眼をそらしがち、そういうことはないでしょうか。
それでいて、人はまた、生き甲斐が欲しいという、贅沢な生きものです。納得のいく生涯をと願う、理不尽な生きものです。
この相矛盾する、人間なるものをどう生きるか。しかして、その甲斐を味わうか。
在家仏教こころの会からの提言です。
自己確認
在家仏教こころの会の宗旨・教義は、双系の先祖の供養です。
父方母方、夫方妻方双方の先祖の供養です。
“いのち”の源である先祖の供養です。
あなたは、あなたがどこからきたのか、考えたことがありますか?
在家仏教こころの会は、人はみな父母から生をうけると考えます。
父母にはまた父母があり、人はみな先祖の子孫、父母の子であると考えます。
先祖の供養とは、つまり、父母と向きあう、先祖と向きあう、“いのち”の源たちと向きあうということです。
そして、その行き着くところは、“自分”と向きあうということです。手を合わせるときは“自分” が生きていることを自覚するとき、ということになります。
自己改革
“自分” と向きあい、自分が見えてきたとき、人は何を思うか。
見栄や世間体が先きだち、他人のせいにして自分では何もしない、勇気に欠ける、行動力のない、みにくい恥ずかしい“自分”が見えてきたとき、人は何を考えるか。どうなるか。
父母、先祖という無条件の応援者たちの応援のもとには、人は、悲観に陥ることはないのです。立とうとするのです。
自分の人生だ自分が何とかしなければと、一歩足を前に踏み出すことを考えるのです。
他人と比べることは愚かなことだと気がつきそのように生きはじめたとき、人は劣等感にさいなまれることから解き放たれ、気がつけば別の人格を生きている、そういうことです。
自己確立
在家仏教こころの会は、生まれたばかりの人間の心は、きよらかなものであると考えます。欲望という垢のついてない、きれいなものであると考えます。
ところが、その赤子の心も、食欲からはじまって、ものごころつく頃にはさまざまな欲望によってつき動かされるようになります。そして思い通りにならない現実にぶち当たります。苦しみ、悩み、憂い、悲しむことになります。
人は、ところで、欲にまみれて生きている間は、この世の真実・事実・現実に気づくことがありません。たとえば生まれてきた以上必ず死ぬといった、この世のあり方にそって、限りある “いのち” を生きているのだとの自覚に立つことができません。
欲望が人を生かしめる根源でもあるのですが、同時に人の一生とは、その欲望との闘いであるとも言えます。
次つぎとわいてくる欲とどうつきあうか。どこまでもついてくる垢はどうしたら取れるか。
自分を見失うことのないように生きてこそ、人として生まれてきたものの生き方であろうと在家仏教こころの会は考えます。
双系の先祖の供養は、自覚、発奮、自立への道です。



